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我以外皆師也(われいがいみなしなり)

昨日はいろいろと思うことがあって気持ちが交錯していましたが、今朝起きて一つの見方を得ることができました。やはり時間をおいて考えてみると、自分で納得できるようなものの見方が得られると思います。

「我以外皆師也(われいがいみなしなり)」

これは、作家吉川英治氏の言葉です。「宮本武蔵」という書物で書かれたものだそうですが、昨日の研修でのことがあり、そして、ここしばらくの自身の行動を振り返ってみて、この「我以外皆師也」の視点が抜けていたように思います。

結局、自分以外の他の人の話というのは、たとえ不満や悪口であっても、ある意味何かを教えてくれる「先生」の話であるように、どんな境遇であっても、どんな状況であっても、他者の言葉は大切にしなければいけないと思います。その言葉を発する人の「言葉」に対してです。

今振り返ってみると、直近の自分には「自分のために何かをする」気持ちが強すぎたように思います。「自分のために」、の想いが強すぎると、ついつい相手のためを忘れて保身に走ってしまい、自分の思うようなパフォーマンスが出せないように感じます。私自身にはそんな気持ちはなかったけど、こうして時間をおいてから客観的にみると思うのです。

もちろん自分自身のために何かをやるのはあってもいいわけですが、それを強く出しすぎると肝心の方向性を見失ってしまいます。相手のために、世の中のために、ではないけど、大きな目的を見失ってしまうと結局はうまくいかないと自分で思ってしまうようなものになるのです。

心理的に無理をしていたのか、それともどこか自分に驕りがあったのか。私は両方あると思っていて、そんな自分でいつまでも良いわけではありません。こうした部分を改善し、更に積み重ねて進化していくしかありません。おそらく今までの自分であれば、自信を失ってしまっていたかもしれません。今は自信を失うまでには至らずに改善しようと思えるようになったのも、自分にとっては大きな進歩かなとは思います。

ふと、昔出会ったある人材育成コンサルタントの方がおっしゃっていた言葉を思い出しました。あるCSをテーマにした研修の中で語られていたのですが、「自分矢印ではなく相手矢印」という言葉です。自分が思いを寄せている人たちに向けた矢印がどれだけブレずに向け続けられるか。相手矢印を強風が吹いてもブラさずに向け続ける。この考えがあれば、きっと「我以外皆師也」の言葉のように思える境地に至るのではないかと思います。

一方でこうも思うのです。これは私のことに限ったことではないのですが、「我以外皆師也」の気持ちで物事に向かえば、たとえ、同じような情報を得たとしても、別の気づきを得ようとか、別のなにかを獲得しようと思うのではないでしょうか。視野の狭い、低い人は、様々な場面で「もうそんなことは知っている」と言わんばかりの姿勢を相手に向けますが、果たしてそれでいいのか、ということです。仮に同じような情報をキャッチしても、「それ知ってる、つまんない!」という気持ちになる人は、きっと「我以外皆師也」の気持ちが薄いのではないでしょうか。

知っていれば知っていた分、「ああよかった!」と思えるのです。つまらないと思うのは、もちろん、つまらない話をしている側にも問題はあるかもしれませんが、それ以上に、自分でなにか新しいものを持ち帰ろうという姿勢があればこそ、つまらない話を面白く自分で解釈してとりいれていくのではないでしょうか。時間を有効に使えない視野の狭い人になってはいけないと私は思います。

残念ながら、相手や社会から何か情報を得たときに、「我以外皆師也」の気持ちがないのであれば、結局は貝のように何もかも閉ざしてしまうのでしょうね。そういう意味では、研修の場でまだ何かいちゃもんつけてくる人の方がましなのかもしれません(笑)。

自分自身だけでなく、多くの人たちに「我以外皆師也」の気持ちはもってほしいなって思います。

昨夜の月夜は、まだ私の中では疲れを癒してくれるにすぎないものでした。しかし、改めて時間が経過すると、みらいを創り出す、照らしてくれる月の光に見えます。新しい光の照らす方向に向かって、様々な人たちの話を大切なものとして受け容れていく。まさに「我以外皆師也」の気持ちで臨みます。

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