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あの日の記憶とこれから~3月11日~

4月以降の活動、予定が埋まってきました。引っ越しの前に、講師として動く案件が決まり、フリーとして活動するための礎が出来たという感じです。昨日の褒め言葉の幸運が、きっと自分に降り注いだのかなって気がしています。

そんな幸運をいただいた日、今日は3月11日です。

今から8年前の今日、あの東日本大震災の日でした。私が今月まで勤務するビルでは、防災に関しての展示コーナーが特別に設置されました。

この展示を拝見して、あの時の記憶がよみがえりました。

あの日、私は当時勤務していた会社のオフィスで打ち合わせをしている最中でした。1階にいましたので、外の様子が丸見えでした。隣の古い家の屋根瓦が崩れ落ち、道路に散乱。非常に危険な状態でものすごい揺れでした。揺れた瞬間に、外に慌てて出ようとしていた人がいたので、テーブルの下に避難するように呼び掛けました。「危ないから外に出ないでください!」と、当時来客でこられていた方々に大声で叫びながら1階のフロアを回りました。当時はマネージャーでもあったので、その責任が行動に結びついたのだと思います。

やがて揺れが落ち着いてから外で出てみると、余震がきました。建物が揺れているのが外から見えました。当時は9階建てのオフィスに勤務していました。エレベーターが止まってしまい、階段を降りてくる方々がいました。8階が打ち合わせスペースだったと思います。

やがて、営業の同僚の方々の安否が確認できたのですが、埼玉、千葉、東京臨海部など、あちこちに出かけていた人が多かったです。そのため、一部の方は帰宅できない方も出ました。私は夕方6時前に本社のあった東京・神田を出発。日本橋まで中央通りを歩き、日本橋で桜田通りへ。ここから警視庁までは、すごい人でした。国道1号線をずっと歩き続け、東京タワーの近くまできたときには、コンビニにものがなくなり始めていました。妻に電話ですぐに買い出しにいくように頼んだのも覚えています。

夜9時前に五反田につき、そこでトイレを借りてから松屋で食事。牛めししか出せないということでしたが、それでもすごく有難かったです。

そして国道1号線を約2時間半歩いて、多摩川大橋手前にある自宅に到着。約5時間半かかりました。妻の顔を見た時には、お互いに涙を流して喜びましたね。生きていることのすばらしさを実感した日になりました。

あれから8年。風化しないように、記憶の向こうにいかないように、今生きていることの貴重さを日々感じて生きていくことが必要ですね。だからこそ、今だから、今しかできないことに挑むのです。そう、独立するという決断は、生きているからこそできることですからね。

静岡県富士市は、地震がやってくる危険性がある街です。湾の奥にある街ですから、津波がやってくることが濃厚。街が水びだしになってもおかしくないです。だからこそ、今だからこそ、精いっぱいやれることをやりたい。防災の意識を持って取り組んでいく事は確かですが、見えない危険におびえても仕方ないので、今はやれることをやるだけですね。日々を大切に生きていきたいですね。街のためにできることをやれる機会を得たのですからね。

震災のあった日だからこそ思えること。この思いを大切にします。

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